ときどき不安に思うときがある。 世の中の時間から自分だけ切り離されている気がして。 未来は見えないし、かと言って過去に戻ることもできない。 いま自分の立っている場所が、どこなのかも分からなくて・・・
暖かい昼下がり。 綿のような雲が、薄青の空にいくつも散らばって、流れてゆく。 穏やかな午後の日差しが、大きな窓から室内へと送り込まれて、ゆっくりと室内を暖めていく。 空に浮かぶ雲のように、ゆるやかに過ぎてゆく時の流れが、目に映る日常が平和である事を告げていく。
特にすることの無い私は、一人でこうやってずうっと空を眺めている。 することが無い、というよりは、何かしたくても出来ない、が正しいのかも知れない。 負傷のため入院を余儀なくされた私には、完治するまで色々な規制をかけられているのだ。
あれからもう3週間になる。 荘園から帰還して、もうこんなに日が経っている。 荘園での戦いで負傷した私は、帰還後すぐさま病院に担ぎ込まれた。 負傷した時はそれほどに感じなかったが、実際には私の怪我はかなりの重傷で、 その場で入院を宣告されて、現在に至っている。 短い時間の中で、いろいろな事がいっぺんに起こった。 記憶を失ったまま、ノワールというコードネームで暗殺を行ってきた事。 そして戻った記憶は最も残酷な記憶だけ。 それゆえのパートナーとの離別。 自分とよく似ていた友との別れ。 そしてパートナーとの再会・・・。 想い出、と呼ぶにはあまりにも残酷すぎる過去。 そんなものでも、17年間の記憶を無くした私にとっては、紛れも無く今まで生きてきた足跡。 「無くしてしまった想い出は、その分これから作っていけばいいのよ」 そういって笑ってくれた人がいた。 自分でも誰なのか分からない私を、名前で呼んでくれたり、 家族がいない私を、自分の家族だと言ってくれる人・・。 その人の事を思い浮かべながら、そっと目を閉じてみる。 真っ暗な網膜に、美しい金髪をした、背の高い女性が現れる。 ミレイユ=ブーケ その人の名前、私のパートナー。 今はかけがえのない、家族。 私達は、お互いの利益のために手を組んだ。 私は自分が何者なのかを見つけ出すため。 ミレイユは自分の両親や兄弟を惨殺した敵を探し出すため。 国籍も違えば、戦う目的も違う。 一見何の関連もなさそうな私達だったが、あるものが私達を結びつけた。 今は手元に無いけれど、記憶を失った私の傍らに置かれていた、銀の懐中時計。 それはミレイユの両親の形見だった。それをなぜか私が持っていた。 互いの求める異なる答えが、同じ線上にある事を確信した私達は、ノワールとして暗殺業を開始した。 「全てが分かったとき、あたしがあんたを殺す」 助力を求めた私と手を組む代わりに、ミレイユが出した条件。 自分の正体を知ってしまった者を消すのは、暗殺者として当たり前の行為だ。 私はその条件を飲んで、ミレイユと共に仕事をこなしていった。 そして全てが分かる日が来た。 ミレイユの敵。 それは・・わたしだった。 私自身、自分の意志でミレイユの家族を殺したわけでは無い。 だけれども、ミレイユの大切な家族を奪ったのが私だという事は、いくら言い訳をしても、変えることの出来ない事実。 自分にとって大切な人の、大切な家族をこの手で殺めてしまった。 今まで味わった事も無いような、激しい心の痛み・・ 銃で撃たれたり、ナイフで切りつけられる外傷の方がまだましだと思えるほどの、狂おしい痛み。 ミレイユは心に負った傷から、いまだに止まらない血を流したまま、ここまで生きてきた。 そういう事実に気付いた事が、更に私の心の痛みを加速させる。 死で罪が償えるとは思わない。 思わないけれど・・・それしか償う方法がないと思った。そう、その時は。 私にとっては、大切に思う人に殺されるだけ、まだ神の慈悲があると思ったぐらいだ。 しかし・・・ミレイユは私を撃たなかった。 そればかりか、危険を冒してまで、私を連れ戻しにやって来てくれた。 そして、ミレイユにとっては家族の仇である私を、かけがえのない家族だと言って抱き締めてくれた。 どうしてそこまで私の事を想ってくれるのか、私には分からない。 何故?と聞いてみようとは思うのだけれど、いつも聞くタイミングを逃してしまう。 と言うか「聞くな」という暗黙の了解みたいな空気が漂っていて、いつだって聞くのを躊躇ってしまう。 もしかしたら私が分からない以上に、ミレイユ自身にも分からないのかも知れない。 世の中には理屈で片付かない事が沢山ある、とよく言うけれど、そういう事なのかも知れない。 1+1は必ずしも2にはならない。人間の心の問題だけに、尚更だと思う。 しかし、自分の大切な人だからこそ、ハッキリとさせたい事だってある。 そんな事を悶々と考えていた私を、ドアが開閉する音が現実に引き戻した。
「霧香〜。今日もいい天気ね〜、ってもう夕方だけど。遅くなってごめんね〜」 大き目の紙袋を下げた金髪の女性が、よいしょ、とその美貌に似合わない声を上げながら室内に入ってきた。 「ほんとにごめんね。3時に来るって言ってたのに・・退屈してなかった?」 妙ににこにこしながら、私を気遣う言葉をかけてくれた。 「うん、寝てたから大丈夫。ミレイユはどっか出かけてたの?」 ミレイユが後ろ手に持つ紙袋を見ながら、聞いた。 それは食料品を入れる、質の悪い茶色の紙袋では無く、上質の紙で作られた、横長の白い手提げ袋。 どこかの店名のロゴが紙袋の真ん中に控えめに印刷されている。 「うん。ちょっとね。それで手間取っちゃって」 そう言って手にした紙袋を私の目からそらす様に床に置き、面会客用の椅子を私のほうに引いて、腰掛けた。 ミレイユは一方的に、他愛の無い日常の出来事を私に報告するように喋り始めた。 私はと言うと、特に振れるような話題も無いので、まくし立てるミレイユの言葉に「うんうん」と相槌を打つだけだ。 それでも充分楽しい、そう思った。 不思議なものだ、と思う。 今まで楽しいとか、嬉しいとかの感情がどういうものか分からなかったし、必要性も感じていなかった。 どういうものなの?と尋ねる訳にもいかないので、ずっと感情というものが分からずじまいだったけれど。 けれど、誰かに聞いたわけでもなく、教えられたわけでもないのに、私は普通に今を楽しいと思うし 嬉しいとも思っている。 これも目の前に座って明るく喋る彼女のおかげだろうか? そんな事をおぼろげに考えながら、私はずうっと聞けずにいる言葉を心で反芻した。 『どうして、私を生かしてくれているの?』 聞こうか聞くまいかを悩みながら、彼女の喋る言葉に相槌を打ちつつ、やっとの事で決心がついたその時、 ミレイユは「そうそう」と声を上げた。 「これ、あんたにプレゼントよ」 そう言いながら、床に置かれた紙袋を持ち上げ、私に差し出した。 プレゼント・・?今日は何か特別な日だっただろうか? 唖然としてなかなか受け取ろうとしない私を見て、くすりと笑いながら彼女は言った。 「あと数日で、退院できるって聞いたから。退院祝いよ。良かったわね。おめでとう」 退院・・?知らなかった・・。確かに怪我はもう痛みも無いし、普通に動く程度なら問題はなさそうだ。 ここから出て、また前の様にミレイユと暮らせる・・そのことが堪らなく嬉しくもあり、同時に、気がかりもあった。 先ほどから自問自答している事。 ミレイユの優しさに偽りは無いと思う。無理して私に優しくしてるわけでも無い。 そうじゃなければ殆ど毎日の様にお見舞いになんか来ないと思う。 そして今のように、自分の知らなかったことを知って、それを真っ先に祝ってくれる・・・。 彼女は、惜しみなく私に愛情を与えてくれている。 なのに、私は・・・そんな彼女の大切なものを奪ってしまった。 私はその愛情に甘んじていいのだろうか? 出来ることならそこに身をゆだねていたい・・けれども、それは許される事なのだろうか? 確認したい。でも、今あるぬくもりが消えてしまうことを恐れて、そのことを聞けないでいる。 こころが葛藤で絞り上げられる。今までにこんな気持ちは経験したことが無い。こんな胸の苦しさは・・。 そしてそれを表すかのように、感情の雫が頬を伝った。 「どうしたの?」 何も言わずに目から涙を零す私を、心配そうに覗き込むミレイユ。 その顔には、本当に心配げな情が溢れていた。 偽りの無いいつもと同じ愛情に後押しされ、私はやっとの事で重い口を開いた。 「・・私はあなたの家族を奪ってしまった・・。そんな私に、ミレイユの家族になる資格、あるのかな・・?」 俯いた私を、彼女はじっと見つめたまま、しばらく沈黙が続いた。 そして少し呆れたような、でも優しさが溢れた、小さなため息を一つつき、彼女は言った。 「・・前に約束しなかった?ほら、覚えてないの? 何だっけ・・指きりなんとかって日本のおまじないで約束したでしょう」 忘れるわけがない。全てが終わって、ノワールになることを捨てた私たちに、どういう結びつきがあるのか? 一緒にいる意味を失いかけて落ち込んでいた私を、新しく「家族」という名前の絆で結びつけ直してくれた。 そんな優しい約束をどうして忘れるだろう。 知りたいのは・・・そんな事じゃない。 その約束を、ミレイユが後悔していないか。気持ちの整理はついたのか、ということ。
再び生まれた沈黙を、穏やかで、優しさの混じった、でも少し強気な声が破った。 「あたしを天涯孤独にする気?」 そう言ってニヤリと笑った。 まっすぐな青い瞳。真剣になると覗かせる鋭い輝きが、言葉を交わすより多くのものを私に伝える。 『自分で決めたことに、後悔なんてしないでしょう?』 そう言っているようだった。その表情を見て、ずうっと心の中を占めていたわだかまりがゆっくりと溶けていく。 「あんた、ずっとそんな事考えてたの?」 困惑交じりの、微妙な笑顔に、頷くだけの返事を返す。 「あんたって、本当にバカね。あんたのこと、あたしがどうして取り返しにいったか、分かる?」 強気な瞳が、優しく細められる。答えを出そうとする私を、じっと待っている。 そうだったらいいな、という答えは常にある。 でも、自惚れかも知れないと思う気持ちが邪魔して、開きかけた唇を閉じてしまう。 それを悟ったのかどうか分からないけれど、ミレイユはふぅっと息を吐き出し、そしてゆっくりと口を開いた。 「家族がいなくなったら、探しに行って連れ戻すものでしょ?」 ハッと息を飲んだのが自分でも分かった。私が出したかった答えを、彼女がハッキリと言ったから。 驚いた・・嬉しくて、目を見開いたままミレイユを見つめていた。 見つめられ続けるのに耐え切れなくなったのだろうか。 そんな視線を払うように、彼女は大袈裟なほど明るく切り出した。 「過去にいつまでもこだわらないの。済んだことより、これからをどうするかでしょう? 過去の約束はもう忘れたって言わなかった?これから始める新しいことの第一歩が、あんたの退院よ。 さ、もういいでしょ?早く受け取ってよ、これ」 そう言って、差し出されたまま受け取れなかった紙袋を強引に押し付けた。 本当はすごく優しいくせに、それを見せるのを恥ずかしがって、わざとぶっきらぼうになるその態度。 そんな態度が、余計に彼女の素朴な優しさを増幅させていて。 隠しても隠し切れず優しさが溢れ出していることに、気付いていないのかな? 初めて出会って、一緒に暮らすうちに、そんな彼女の本心が少しずつ見えてきて そして毎日あなたのことが好きになって。 これからもきっと、それは変わらないんだろう。 年を重ねるように、日々あなたへの想いは積み重なって。 嬉しくて、とにかく嬉しくて、滲む視界をこすりながら目の前の紙袋を開けてみた。 「まさかパジャマで退院〜・・ってわけにもいかないからね」 彼女が言うように、中から出てきたのは、黒の半袖ニットと、丈がやや短い薄茶のチェック柄のプリーツスカート、 オフホワイトのシンプルなジャケットに、踵のあまり高くない、明るい茶のロングブーツだった。 きっとこれを買うために、私に似合いそうなのを探していて、約束の時間に遅れたんだろう。 そんな事を聞いても、おそらく意地っ張りな彼女は「そんなことない」としか言わないんだろうけど。 大袈裟に否定する姿が容易に想像できる。彼女のそんな癖も、いつの間にか覚えてしまった。 「ありがとう・・とても、とても嬉しい・・」 自分でも驚くほど、素直に思ったことを言えるようになった。 「まったく〜。喜んだ顔が見れると思ったのに、泣かれちゃうなんてね〜。がっくりだわ」 おどけて落ち込んだふりをするミレイユの仕草に、素直に笑顔が湧いてくる。意識せずに心から嬉しいと思う。 「ごめんごめん。本当にありがとう。ミレイユ」 「これからは約束を守って、済んだことに拘らないのなら、許してあげてもいいわよ」 さあどうなの?と言わんばかりに、腰に手を当てながらの強気な台詞。 口元が今にも笑い出しそうにぴくぴくしていた。 それはあきらかに私の答えを知っているという表情。 そうであっても、私はちゃんと自分の言葉で伝えたかった。 悟ってもらうのではなく、伝えることで自分が導き出した答えが本物になるような気がしたから。 「もちろん約束を守るわ。過去のことも拘らない。それも約束する」 「よろしい」 くすくす笑いながら、しなやかな腕で、私の頭を引き寄せた。 暖かい体温や、ふわふわ漂ういい匂い、長い髪の柔らかい手触り、いつもと変わらない、ミレイユの感触。 初めてこんな近い位置で見上げた、細い顎のライン、長いまつげ、波のように揺れている青い瞳。 新しく知った、いつもとは違うミレイユ。 知っていたものも、知らなかったものも、今感じることが出来るのは、こうして生きているから。 それを感じることだけでも、生きる意味があるように思えた。 自分が感じたことを、いまは上手くまとめられないけれど、拙くてもいいから今すぐ心にある気持ちを伝えたい。 胸にうずめられるように抱きしめられた私は、直接彼女の心へ届けるように、ちいさく、ちいさく呟いた。 「大好きだよ。ミレイユ」 不意に抱き締める力が強くなった気がした。ふふっと笑う声とともに、優しく降り注ぐ言葉。 それは自惚れでは無く確かにこう言った。 「あたしもよ」
これから始まる、予測の出来ない明日。 この手には戻ってこない、失った昨日。
失ったもの、捨てたものはたくさんある。 けれど、それ以上に手にしたものがある。 わたしには、あなたが奪わなかった、命がある。 わたしには、あなたが与えてくれた、心がある。 わたしには・・・あなたと共有する、絆がある。 そして、私の立っている場所。 それは未来への出発点。 そこに立っているのは、わたしだけじゃない。 これから先、何があっても、二人で歩いていける。 不安なときには、手を取り合って。 そうやって生きていけるのなら、見えない明日だって悪くないよね? そう、わたしは胸を張って、笑顔でわたし自身を生きていく。 ――忌まわしい過去にさよならを、そして始まる未来に笑顔を。
-fin-
実はこのSS、だいぶ前に書いて、お蔵入りになっていたものです。ミレイユ視点SS「Starting
over」よりも前。 で、「Starting〜」を書いたあとに、これちょっと直したら、霧香視点に使えるかな?と思い、修正してアップしました。 こう、心の葛藤を書くのが好きで、色々やりすぎてイタイし長いですね・・私自身、落ち込んでいた時に書いたのもイタイ。 落ち込んでいるときに余計そばにいてくれる誰かの存在が大きく感じて、それにすがってしまう自分・心のどこかでは 甘えていいのかどうか悩む自分。そういうののせめぎ合いで苦しいときはありませんか?で、そんな時にいつもより その人との絆と言いますか、「ヘタレな自分を嫌いになってないか」って気持ちを確認したくなりませんか? わたしはほんまヘタレなんで、そういう時は頻繁にあります(笑)いつも回りの友達とかに支えられているのですが、落ち込んで いるときほど誰かとの繋がりがほどけていない事を再確認したくなるのです。 そんな時にちゃんと支えてくれた友達や家族。かけてくれた温かい言葉。そういった物に泣きそうなほど感謝をしながら 壁をひとつ、乗り越えられた自分。そんな出来事を思い起こしながら書いてみました。霧香=自分、だなんておこがましいことは 言いませんけどね(笑)むしろ私の性格はミレイユにそっくりです(ノワール占いでもミレイユ属性だった) タイトルは、ミレイユVerが「再出発」で、霧香Verが「出発点」です。多分(多分て!)エーゴは苦手だったもので・・ タイトルだけ手書きなのは、こう「手記」みたいにしたかったからです。何気にページもルーズリーフチックなのはそのためだったり。 -お戻りはコチラ(TEXTに戻ります) もしくはブラウザの「戻る」で戻ってください- |